ドイツで納豆屋、その心は?
またまたすっかり更新が遅れてしまいました。
失礼致しました。
気まぐれに見て頂ければと思います。
Twitter(@natto24ger)の方が更新が多いので、
ご興味のある方は是非ドラマを見る感覚でフォローしてみてください。
(冗談です。笑)
がむしゃらになっている姿が格好悪いのであれば、それでも良いです。
— フランクフルトの納豆屋 (@natto24ger) October 6, 2018
私はバカなのでクールに構えるなんてことは出来ず、がむしゃらに、生きていきたいのです。
ガハハと笑って飯を食い、バカだけど正直に人の話を聞き、昔っからそういう人間なのです。
格好悪いかもしれませんが、それが私です。
今回はよくご質問を頂く、「結局Sophieは何をやってるの!?」
ということから派生をした話をしていきたいと思います。
私は現在、ドイツで納豆屋をやっているのですが、
ゆくゆくはブラジルで学校を建てたいとも言っています。
・・・え?どういうこと?
なんも関係なくない?
そうなんです。
一見すると全く関係のないこの話、どう繋がっていくのかお話致します。
先ずは、
え、で、
そもそも何でドイツにいるの?
という話から。
私、実は日本の商社で会計系の仕事をしていたんです。
予算期には始発近くから終電近くまで会社におり、社畜のような日々を・・・
東南アジアを中心とした資産管理の仕事をしており、
とっても有意義に働かせてもらいました!
そんな毎日をときめく商社ウーマンだった私には
勿論ドイツのド、の字も思い浮かばず、
ブラジルのことばかり考えては
「ここでいっちょ功績を挙げて、絶対に営業に出るぞ!」
「ブラジルとの仕事に絶対関わる!なれるものなら部長職にもなりたい!」
「そしていつかブラジルにプラントとか建てて雇用を生み出す仕事をするんだ!」
と人知れず熱い想いを胸に抱いておりました。
更には以前ドイツに旅行した際、
電車内でドイツ人に非常に冷たい対応をされたことから
「ドイツにはもう2度と来るか!」と思っていた過去すらあります。
正直なところ、当時はドイツなんて興味もありませんでした。
仕事柄、「ヨーロッパは再エネが強いんだふーん。」くらいでした。
そんな私がドイツに興味を持つなんて、
理由は1つしかありません。
そう、素敵なドイツ人に知り合ったことでした。
日本で。しかもファミリーマートで。
ええ、あの、コンビ二のファミマで知り合いました。
彼は旅行中、私は社畜中、土曜の昼下がりに、
私の心が“いらっしゃいませ”しました。
(出会ったその日に付き合い、数ヶ月で移住を決意、
半年で結婚して今月出会ってやっと1年目です。
この話も長くなるので、また今度。)
!だがしかし!
私は恋愛にも人生にも妥協したくない、
面倒くさいこだわり女なので、
よっぽどの理由がない限りは、
何の計画もなしにドイツに行こうと思いませんでしたし、
納豆屋をやるだなんて当時は夢にも思いませんでした。
会社経由でドイツに飛ばしてもらおう!だとか、
彼がこっちにくれば良い!だとか、
大学院に行こうかなー。だとかモヤモヤと考えていました。
そうか、分かった、なるほど。
って・・・
何でドイツで納豆屋なん。わら
院とか行けば良かったんちゃうん?
(私の友人風)
そうなんですよね、そう思ってたんです、私も。
でも、主人(当時は彼氏)が言うんです。
「納豆屋やりなよ。」
「納豆屋、絶対流行るよ。」
「こっちに居る日本人、納豆大好きだからさ。」
最初の私の反応はこうでした。
「納豆屋?」
「ヨーロッパ人があのネバネバと匂いを好きな訳ない。」
「日本人っていったってパイは小さいでしょう。」
「それに売れるならとっくに大手が参入してるよ。そもそも冷凍納豆あるやん!」
「それで皆満足してるジャン!」
「しかも、起業は今のところ考えてないし、
もしやるなら樹木の葉の部分がモジュールになってて、
葉の部分で発電、幹の部分で蓄電、そして地下送電できる太陽光パネルを作りたい!」
「理系の大学に入り直そうかなー。」
でも主人は言うんです。
「えー、納豆屋、やらないの・・・。」
貴方だってそんなに納豆が好きな訳でもないのに、
何故納豆屋なんだと思いました。
(当時)出会ってまだ2,3ヶ月しか経たない人の
そんな勝手なアイディアに飛びついて、
私がキャリアを捨ててドイツに行くわけないと思いました。
でも思っただけでした。
そんなこと思っている内にドイツに来て、納豆屋になっていました。
何故か。
理由はとってもシンプルです。
絶対売る!という熱量を掛けれる仕事であったこと、
未知数な分伸び代も大きく、ワクワクする仕事であったこと、
何より自身の人生の目標である、
【ブラジル・スラム街の人々に雇用を生み出したい】
という夢に直結していく可能性が大いにあったからです。
具体的に何故そう考えるに至ったのか、
どう繋げていくつもりなのかは、また次回お話したいと思います。
それではっ!
日系ブラジル人について婆ちゃんが語ること
このブログは自身の記録用にしていきたいと思っているので、
最初に更新してから全然更新していなかった訳ですが、
ちょっとずつ書いて行きたいと思います。
今回は日系ブラジル人についてです。
日系人と言われて何を思い浮かべますか?
日本人の血が混じった外国育ちの、ハーフやクォーターでしょうか。
正解です。
でも実は、世界には他にも様々な日系人がおり、私もその内の一人です。
一見しても二見しても、日本人にしか見えないような、
なんともおかめな顔立ちですね。
確かに私の血筋は祖父母も両親も日本人ですし、
生粋な純ジャパである訳ですが、
私はちょっと変わった異文化の中で育ってきました。
ここでは何故私が日本人の顔をしているのにポルトガル語を話し、
ブラジル人と名乗っているのか、そういったお話をしていけたらと思います。
ブラジル移民の背景は様々ですし、
私の母校の教授を始めとした、色々な専門家の方がまとめていらっしゃるので、
ここでは私の祖母から聞いた話を書いていきます。
先ず、ブラジルは世界でも有数の日系人居住地であり、
現在では160万人以上の日系人が住んでいると言われております。
ブラジルへの移民は実に今から100年以上前、
1908年に正式に始まった訳でありますが、
国を挙げて移民政策を行っていたので、
下記のようなプロパガンダも出されておりました。
「ブラジルに行けば稼げる。」
そう思われ、言われていた時期があった訳です。
祖母は、日系人がどうやってブラジルという地に渡ってきたのか、
大きなため息をつきながらいつも語ってくれました。
「あの頃はね、ブラジルに行けば金銀がたくさん出るから、
たくさん稼いで帰って来れると言われていたんだよ。」
「まんまと信じちまったねえ。婆ちゃんは、あの頃、5歳だったなあ。」
「でも待ち受けていたのは奴隷のようなコーヒー農園での労働だったね。」
「じきに戦争が始まって、強制収容されたりしたもんだから、
勉強もろくに出来なかったしねえ。年上の人が教えてくれていたんだ。」
「何でこんなところに来ちまったんだと、
おっかさん(私の曾祖母)は何度も言っていたもんだよ。」
「(曾祖母は)随分と若い内(30代後半)に死んだよ。」
彼らは稼げず苦しい思いをしていたので、日本に残るのではなく、
政府を信じてブラジルに渡り、どうにか稼いで帰って来ようとした訳です。
けれどそこに待ち受けていたのは、
想像を絶する酷い労働環境でした。
トイレすらなく、歩けば人の糞を踏み、
6帖程の狭い部屋に5人で寝る毎日。
お隣さんの夜逃げは日常茶飯事。
豆電球で暮らす日々。
数年働けばお金を持って帰れると聞いていたのに、
十分な給料も支払われない奴隷のような生活。
日本へ戻るためにお金を貯めようにも、
5年働いてやっと1人だけ日本に帰れるかどうかのお給料だったと、
祖母は語ります。
こんなことが起こってしまった背景には、
長引いたブラジルの奴隷制度があります。
ブラジルは世界的にも奴隷廃止が遅い方で、
そこで奴隷の代わりとなる労働力が必要となり、
中東やヨーロッパからの移民を受け入れておりましたが、
過酷な労働環境により反乱等が起き、
日本を始めとするアジア諸国からの移民を受け入れるに至りました。
一方で日本では日露戦争が終わったものの、
賠償金を得られなかったことで経済が混乱し、
農村部に深刻な貧困が訪れたため移民を出した。
と・・・、公式には言われています。
しかし祖母の意見はこうでした。
「あの頃は高等教育を受けたいという人間が増えていてねえ。」
「日本は保守的な方が多いからねえ、外国からの労働者の受入には勿論消極的だよ。」
「工場なんかで(ブルーカラーの)人手不足になるのを見越していたんだろうね。」
「だから日本が不況の時には人を外に出して、
経済が潤った時に人を日本に戻してくるのが良いんだって、
ある偉い人が言っていたっけなあ。」
「ぶん殴ってやろうかと思ったけどね。」
「実際に今は日本へ日系人が出稼ぎに行ったりなんかして、
工場で働いているからねえ。」
「婆ちゃんはさあ…、なんとも言えないなあ。」
そして祖母はいつもこの言葉で話を締めくくります。
「まあね、そんなこと言ったって仕方が無いんだから。
婆ちゃんはここで、幸せに生きているんだから、それで良いんだ。」
こういった背景から、
日系人の中には日本政府やブラジル政府に、
「騙された!」と思っている人が少なからず居ます。
でも、そんなことを言っていても仕方がないから、
頑張るしかないから、と努力を重ねた結果、
ブラジルには大きな日系コミュニティが出来上がり、
ブラジルの経済成長にも大きく貢献してきたのです。
日本の順天堂大学にて産婆さんをしていた曾祖母は、
ブラジルに渡ってからも白馬に乗っては様々な家庭へ飛び回り、
過酷な農作業の傍ら1000人程度もの日本人やブラジル人の子供を産ませたのだと、
強い女だったと、祖母は胸を張っていつも言っておりました。
そんな祖母もまた、今年で御年91歳になりましたが、
小さい頃に苦しい体験をしていたにも関わらず、7人の子供を立派に育て上げ、
ブラジルという地で今も元気に前向きに生きています。
日本の教科書には、
あまりブラジルへの移民について書いてありませんし、
普通に生活していく分には、特に関心の沸かない話題でしょう。
でも、確かに海外には今でもたくさんの日系人がいて、
様々な功績を残したり、
日本に思いを馳せたりしている訳です。
だからこそ、
それらの人々を誇りに思いながら、
この話が、壮絶な実体験が、無へと消えていくことのないよう、
ここに一筆、記録をしておきます。